ある夜の街1「ひがし茶屋街の夜」
北陸から丹後半島に掛けて、取材を兼ねて旅をしてきた。
印象に残った土地は少なくないが、まずは金沢の思い出深い場所をご紹介したい。
写真は、兼六園から東北の方向に十分ほど歩いた場所にある「ひがし茶屋街」である。加賀百万石の繁栄は、東廓、西廓、主計町廓と三つの優雅な遊郭跡を現在に伝えている。
若かりし頃、GWに訪れたおりには、金沢で一番強く印象に残った場所である。
花の香りを運ぶ夕風に乗って、三味線の絲の音が聞こえた。
耳を澄ませていると、爪弾きの絲に乗って小唄と覚しき曲を稽古する艶のある声が響いてきた。
20代の頃の僕は、初めて味わうそんな旅情に、酒に酔ったようになり、目眩を感ずるほどだった。
ずいぶん時間が経って、僕の感性も鈍くなってしまったが、ようやく、ひがし茶街を再訪できた。
平成13年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されたおかけで、幸か不幸か整備が進んだ。
上の写真のようにライトアップも美しく、夜も楽しい観光地となった。
木虫籠(キムスコ)と呼ばれる紅殻の風情ある出格子や、「ひがし」と記された、軒から下がる行灯を眺めながら逍遙することしばし……。
メインストリートから、裏通りに迷い込むと、素敵なお店が待っていてくれた。
落ち着いた街のたたずまいに溶け込んだ茶房『ゴーシュ』である。
一歩足を踏み入れると、古いシャンソンが漂うように聞こえてきた。
蓄音機から流れるかのような甘いシャンソンは、古民家のような店の佇まいと、似合いすぎるくらい似合っていた。
カウンター以外の客席が畳敷きの小上がりとなっているのも、この街にふさわしい。
お奨めがカルヴァドスのハイボールだと知って、まず参った。
レマルクの『凱旋門』や、映画『カサブランカ』で、奪われたフランスの自由の象徴として描かれる、ノルマンディー産のアップルブランデーである。
オールド映画ファンなら、モノクロフィルムの中で若きイングリッド・バーグマンが、
カルヴァトスのグラスを手にするシーンを記憶している方も少なくないと思う。
こんなシックでレトロなテーブルに向かい、1930年代のオールドシャンソンに耳を傾けながら、カルヴァドスを味わうなんて、余りにもできすぎではないか!
加賀宝生流、加賀友禅、九谷焼と、数多くの輝かしい文化を擁する金沢の夜ならである。
一杯のハイボールで、すっかりいい気分になった僕は、続けてマンハッタンを頼んだ。
三十代と覚しきマスターは、実に美しい身のこなしで一つ一つの手順を進めてゆく。
ショートカクテルのハイライトとも言えるシェーカーを振る手さばきの鮮やかなこと。
冴えた琥珀色の透明な液体がテーブルに置かれた時には、飲む前から酔っていた。
マンハッタンの、あまりのバランスのよさに、ロングも試したくなり、続いてロングアイランド・アイスティーをオーダーした。
こちらは、今までに飲んだ中でも、最高の味だった。
マスターは、ビターテイストの扱い方がとても上手い。
今度は、マスターがサイフォンで淹れていた薫り高いコーヒーも楽しみたい。
戸口まで見送ってくれたマスターは、繊細な容貌や仕事に向かう表情の厳しさとは裏腹に、とても優しい雰囲気の親しみやすい方だった。
僕はマスターに美味しいカクテルを頂けたことへのお礼を言い、必ずまた、伺う約束をして、夜の街へと出たのだった。
今回の写真は、半年ほど前に購入したCanonのS110で撮ってみた。
最近のコンパクトカメラって、ほんとに凄い。
胸ポケットに入る旅カメラとしては、僕にとって、唯一無二の選択だった。